雨の日

 空からバケツをひっくり返したような雨の日でした。
 街路樹の小脇には小さな、ちょうど1メートルもないでしょうか、それくらいの大きさの薄黒く汚れた、白っぽい小箱が忘れられてしまっているかのように置かれていました。
 道行く人々は傘を被り家路を急いでいます。
 雨音はしとしとから垂れ音に変わり、強まっていることが明らかです。
 小箱の屋根にも雨は容赦なくたたきつけて、たいへん、音が響きます。
 
 よく目を凝らさないと気づかないかもしれません。
 小箱の中には外を覗き見る目のようなものがちらちらしています。外を気にしています。

 何か入っているのです。

 しかし、街の人々は、何が入っているのか気づいても、誰も気にも留めません。連れて帰ってあげるわけにはいかないからです。
 「ママ、あれ何?」雨合羽を着た子供が立ち止まります。
 「見ちゃいけません、止まってはだめよ」
 もうそんなやりとりは幾度となく立ち止まっては通り過ぎの繰り返しでした。
 くぅん。時々、鳴き声が聞こえます。きっとお腹が減っているのかもしれませんね。
 雨は止みません。

 その夕暮れから2日前のことでした。
 ある小さなアパートの小さな部屋、小さな家族の中での出来事です。
 「がんばって、がんばって、がんばって、いい仔を産むのよ」
 その部屋の住人でしょうか、女性がお腹を大きくし横たわり息も絶え絶えに苦しがっているメスのお母さん犬に声をかけていました。
 「ママ、子犬は、何匹産まれるの?産まれたら名前をつけてもいい?」
 そう言ったのは、さっきの女性の娘かもしれません。幼稚園児くらいの女の子でした。 
 「いいわよ、ほらがんばってがんばって」
 母親犬がきゃんと吠えると同時に、お腹の中から子犬が1匹、1匹と2匹出てきました。
 「やったぁ、子供が産まれたー」
 女の子が喜びます。女性はお母さん犬の頭をなでてあげています。
 お母さん犬は疲れて眠たそうな眼を開けながら、産まれたばかりの子犬の頭を、何度も何度もなめてあげていました。
 産まれたばかりの子犬はきゃんとも吠えずにころころと転がっていました。
 そのうち落ち着きだして、お母さん犬のおっぱいに小さな口で吸いつき始めました。
 「ママ、可愛いね」
 どうやら、女性は女の子のお母さんのようです。
 「うん、そうだね。大事に育てようね、名前は考えたの?」
 「この仔は、コロ。この仔は、えっと・・・」
 女の子が名前を考えているとき、突然、ドアを叩く音と、チャイムが鳴りました。
 「あ、パパだ」
 お父さんの帰宅のようでした。
 お母さんは手早くお産に使ったタオルと、子犬を抱き上げて、玄関にイソイソとスリッパを鳴らしました。
 ドアノブの鍵を開けて、パパを迎え入れます。
 「お帰りなさい。見て、こんなに可愛い子犬が産まれたの。加奈ちゃんも喜んでるわ。ね、カナ」
 「うん」
 加奈ちゃんはありったけの喜びで頷きました。
 パパは子犬を見て、ふんと鼻を鳴らすと、カバンを子犬を抱き上げているママに素早く手渡し、矢継ぎ早にこう言いました。
 「子犬は近いうちに、保健所へ。どうやってうちみたいな小さなアパートで3匹育てるんだ?」
 お母さんは子犬をお母さん犬に返して、カバンを抱えました。小走りで歩くパパの背中をママが追いかけます。加奈ちゃんは、「あなたはコロ、あなたは・・・」
 「だって、飼い主が見つかるまで預かってもいいってあなたが仰って」
 「冗談に決まっているだろう。飼えるわけないじゃないか。2匹とも一週間以内には保健所だ」
 「無理です。加奈が悲しみます」
 「お前ができなければ、俺がやる」
 パパはネクタイを外し、ふちの無い眼鏡を外すと加奈ちゃんを抱き上げこう言いました。
 「仔犬は1匹しか、飼えないんだ加奈。どちらかに選びなさい。もう1匹はパパが飼い主を探してきてあげるから」
 「えぇ、でも・・・」
 ママは無言でパパの脱いだ靴下やネクタイ、背広などを片付けています。加奈ちゃんがママに視線を移してもママは見てくれません。
 「じゃぁ、コロ・・・」
 「わかった。加奈は賢いな。もう1匹はパパが責任をもって飼ってもらう人を、な」
 その翌週、コロとその兄妹は離されて、名づけられ損ねたほうが小箱に入れられました。
 雨の日でした。外はざぁざぁ雨。お父さんは帰宅すると小箱を抱えて傘を被り、
 「行ってくるよ」と小さなアパートを後にしました。
 お母さん犬はそれを見つめているきりでした。

 「お前が悪いんじゃない。俺が悪い。産まれてきたお前に罪はない。それはわかっている。だからお前には生きてほしい。自分の運を信じて生きてほしい」
 パパはそう独り言を呟きながらとぼとぼと傘を片手に小箱を抱えながら歩き、信号をいくつか曲り、やがて緑とベンチとトイレのある公園近くの街路樹の下に小箱を置きもう一度、
 「恨むなら俺を恨んでくれ」
 と言い残して、小箱のふたを開けて雨の中を引き返して行きました。

 それから何時間経ったでしょうか。やがて雨が止みました。小箱から子犬は外へでて、初めて日の目を見たのです。まだよちよち歩きながら。
 そして空を見上げると、白い入道雲がもくもくとたちあがっていました。スクランブルには幾重の人々。多くの人がこの小さな犬を見ては、「可哀想ね」或は「汚いわね」というきり、通り過ぎていきます。
 街路樹は夏風に揺られて涼しげです。子犬が眩しくて目を閉じた時、小箱の近くに誰かが立ち止まった足音がしました。
 「君、どこから来たの?」
 子犬が見上げるとそこには、髪の長い優しそうな女性が立っていました。
 もう一度、くぅんと鳴いてみます。お腹が減っているのです。
 「君、お腹が減っているの?」
 くぅん。
 「よし、連れて帰ってあげる。そうね、名前が必要ね・・君の名前は・・・9くん」
 くぅん。
 「9くん、私の名前は、なな。ななっていうの。よく覚えておいてね。よろしく、9くん」
 くぅん。

 長かった雨の夜。授難の運命。スクランブルの人々。決して冷酷ではなかったパパ。そして優しい人との出会い。
 
 まだ梅雨上がらない、決して快晴とはいえない日のできごとでした。
 そして夏というには雨の多い、そんな夕暮れ時のできごとでした。

 それは季節の出会いによる、新しい時間の始まりのようでした。

 終わり